jokogumo note

[日々のつれづれ]

鐘のなるところ

鐘のなるところ

今の家に越してきてもうすぐ1年が経ちます。
東京に出てきて最初に住んだのは庭のある古い一軒家で、気に入ってずっと住んでいたけど、子供が生まれるタイミングでその家が取り壊されることが決まり、それならということで店からあまり遠くない場所で探すことにしました。

決めた新居はまわりにお寺が多いなぁとは思っていたけど、それを実感したのがたまたま東京で年越しをした大晦日の夜でした。前からも後ろからも、音色の異なる除夜の鐘がごーん、ごーん、ごーん。

わぁ、こんな都会でもちゃんと鐘が鳴ってるんだ!とどこか嬉しくなりました。すぐ側まで見に行きたい気持ちは冬の寒さにあっけなく削がれたものの、今度ここで年越しをするときにはきっと側まで見に行こうと思ったのでした。

結局はそれをしないまままた引越ししてしまったのだけど、次の場所でもまた鐘の音。今度はお寺ではなく、大学の時計塔からでした。毎日決まった時間にキーンコーン。朝も夜もそうして時間を知らせています。

鐘の鳴る風景はいい。お寺の鐘でも時計塔でも、授業のチャイムでもいい。決まって鳴ることの安心感なのだろうか。当たり前に繰り返されることに平和を感じる。

そういえば実家近くのお寺でも朝6時くらいに鐘が鳴っていたような。そんな時間には起きない年頃?に住んでいたからたまにしか気付かなかったけど、なんだかんだで私はいつも鐘のそばに住んでいるのかも。

最近はそれを許さない人もいるそうで、そのために鐘のなる風景が消えてしまうのはとても残念に思う。愛されるものとして続いて欲しいものごとのひとつ。

少し話はかわるけど、物心ついたときからこの鐘の音を聴いて過ごしている息子が、言葉を話すようになったとき「ぴやーん、ぴやーん、ね。」と音の方を指差し鐘の音が鳴っていることを教えてくれました。

なんと! 鐘がぴやーんと鳴ってるなんて考えたこともなかったから、固定観念のない人の表現方法にはまったく驚いたのでした。音に対してもまだまだ自由なんだなぁと気付かされたこのときからは、面白いのでこちらが決まったオノマトペを植えつけるのではなく、まず自分の言葉で話してみてもらうようにしています。

そのうち共通の言葉を使うようになるのだし、それまでは例え鐘がぴやーんと鳴ろうがなんだっていい。音を聴いて、感じることが大切。