jokogumo note

[コロナ禍のつれづれ]

コロナ禍の暮らしの営み

コロナ禍の暮らしの営み

さらに一週間が経ちました。気付けば5月、店を休業するようになって1ヵ月です。4月はいつもなら入学や入社、移動など、新しい何かが始まる節目になることが多く、自分がそれに該当しなくてもどこかソワソワ、でもウキウキとした気持ちになるのだけど、今年はそれがまるまるぽっかりと抜けてしまったような感じ。ぽっかりと抜けたのにものすごく長く感じられるって不思議です。

でも、そんなふうに突然に立ち往生してしまった人間社会をよそに、ソメイヨシノが散り、八重桜や山吹が咲いては散り、その下ではタンポポになずな、すみれにハナニラ、ヒメジオン、ムラサキカタバミなどなどなど。本当にたくさんの野花がいつも通りに花を咲かせています。最近はドクダミの葉が大きくなってきました。

この「いつも通り」の植物を、こんなにも実感した4月はなかったかもしれません。毎年その場所で命を繋いでいることの意味。いや、意味なんてないのかもしれなくて、ただそこで生きて、繋ぐ。雨の日も晴れの日も、急に寒くなったり、暑くなったり。踏まれたり、刈られたり、何かを撒かれたり。地球に生きるもの、という点で人間もその自然の一部であると考えると、いくらかの理不尽をも植物にとっては自然のうちのひとつなのだろう。

ウィルスもまた。

こんな状況になって思い出すのは、私がよく訪ねる雪国のおじいちゃんおばあちゃん。11月には降り始める雪。そして数メートルにも積もったそれがとけるのは4月。今でこそ県道や国道は除雪車が走り、車で出掛けられるようになったけど、昔はまさに閉ざされた冬を過ごしていて、その知恵が今でも生きている。外に出なくても暮らせるよう、備えた保存食を食し、手仕事に勤しむ。古く薄暗い家の中で過ごす冬はいったいどれほど長かったのだろう。

ただ、悲観するわけでも腹を立てるでもなく、受け入れ、自然の一部としてそこでの暮らしを営む。

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以前、縄を綯うことについてあるおばあちゃんに尋ねたときの、その人が言った言葉とそれを話す穏やかな様子が心に残っています。「いくらやっても楽しくてな。どんなに時間がなくても、10分でも15分でもいいからこうして綯ってると気持ちが落ち着くんだ。」

もしかすると長い冬も手を動かしているうちあっという間に過ぎていたのかもしれない。畑や田んぼ、山仕事で忙しい季節には出来ないことを、できる季節にする。手から生まれる道具に喜びを感じ、今日も食べられることに感謝する。1日1日変化する光や、雪の音、水の音、風の声に耳を澄まし、また次の春を迎える。


時代も環境も変わり、それをぴたりと当てはめることの出来ない今、「暮らしの営み」などというのは尊くもどこか遠いところにあるもののような気がしていました。暮らすことはできても、それを営んでいるかと言われると自信がない。でも、そうじゃなかった。そういうことじゃなかった。

うまく言えないのだけど、私は今あちらこちらで人々の暮らしの営みを目にしている。と、思う。

自分の身の回りにあるものを使い、また身に着けることに改めて喜びを感じ、#料理リレーなど、SNSで公開されるレシピを参考に新しい料理にチャレンジしたり、テイクアウトしたお料理を愉しみ、頂く。これだってまさにこのコロナ禍におけるひとつの暮らしの営みじゃないかと、はっとしたのでした。人と会えず外に出られないという制約と状況を受け入れるある種の観念が、ものごとの向こう側にある気配をより確かにし、暮らしに実感を伴わせるのかもしれないし、もしかすると単純にその時間が割合として増えているだけなのかもしれないけれど。

夏が来て秋が来たあとには冬が来る。そしてまた春が来ることは間違いなくて、その「確かな」ものを信じながら、今出来ることをして暮らす。それはささやかながら心の平穏をもたらすものであり、縄を綯うおばあちゃんとどこかで繋がっているんじゃないか。そんなことを考えています。