jokogumo note

[日々のつれづれ]

10年経って思うこと。

10年経って思うこと。

店を移転OPENしたときに投稿してから、なんとこれまで1度も更新せずに来てしまいました。半年が経ってる。この間、何度か書こうともしたのだけど、なんだかうまくまとめることができなくて、結局下書きのまま途中やめにしたまんまのものがいくつも。

気持ちは浮いたり沈んだり、何かをやろうと思ったりやめようと思ったり。
そういうサイクルはいつだってあるわけなんだけど、このところそのスパンがそれぞれ短く、言葉にしようと思っているうちに変わってきてしまい、そのときの気持ちをうまく消化できない。本当なら、ちょっとご飯いこうよ!お茶でもどう?と、親しい友と会ってとりとめもなく話したり、どこか旅に出てリフレッシュしたり、もっといろんな方法があるはずなのにな。

そうやって消化が進まないから、また短いスパンで気持ちも浮き沈みするんだろう。でももう、それはそうとしてしばらく付き合っていくしかないのだと思う。みなさまはいかがお過ごしでしょうか。


コロナ禍になって1年、東日本大震災からは10年です。今日は10年前のblogを読み直していました。
2011年3月の「別冊よこぐも手帖」

10年経っても、こうしてそのときの素直な気持ちを読み返すことが出来るのを見ると、どんなときも言葉に残しておくことの大切さを感じます。日記だとひたすら内向的になってしまうけど、blogだと人のことも意識でき、私にはちょうどいい気がする。

今朝はいつもどおりに、息子を自転車の後ろに乗っけて保育園へ。支度をするのが遅いことにブツブツと小言を言いながら行ってしまった。そして帰り道にちょっと後悔。遅くなった事実は事実でもうこれ以上変わらないんだから、もっと楽しく行けばよかった。またやってしまった。これはここまで全部セットの、ありがちな朝の話。

でも、そのありがちな日常が最後になることだってある。最後になってしまった人もいる。
保育園からの道すがら、黒いリボンとともに掲揚された日の丸を見ながら思う。

震災に限らず、ちょうど昨日で76年の東京大空襲だってそう。災害や戦争、事件や事故。世の中にはどんなに多くの人が深い悲しみや後悔を抱えて生きているのかを考えます。どんな気持ちでその過去と向き合い、もしくはどこか奥深くにしまい込んで生きているのか。

あなたに起こることは私にだって起こり得ることで、あのひとの悲しみはもしかすると私のものだったかもしれない。そのことを忘れないで過ごすこと。想像すること。よりよく生き、生きられる、そのために必要なことをする。

手を取り合って助け合うことも必要だけど、それでもやっぱり、いちばん必要なのは「政治」だと、コロナ禍になって1年、東日本大震災から10年経って、これまでになくそれを強く感じます。

選挙のときに誰に投票するのかということだけでなく、ひとりひとりが自分の暮らしの一部として、政治を考える。国会で今何が議論されているのかを知る。誰が、どういう考えを持っているのか、誠実さはあるのか。私たちの税金はどのように使われているのか、不正はないのか。自分のこととして、日常的に関心を持つ。その上で選挙に生かす。

政治の話はタブーとされることが多かった国ですが、その結果がこれです。私たちの暮らしの当たり前から随分と遅れている官公庁・公共サービスのデジタル化。暮らしを心地よくしようと身の回りによいものを選んでも、公共施設はどうでしょう。新しく作る道にも不必要な段差があるってどういうことなんだろう。10年経って、原発はどうでしょう。まちづくりはどうあるべきなんだろう。誰がどんなふうに、私たちはどんなふうに暮らしたいのか。

図らずも、コロナ禍で暮らしを見直し、自宅をより心地よいものにしようと考える人が増えました。政治はまさに、その延長なのだと思います。よりよい暮らしをつくるもの。私が抱えるものだったかもしれない悲しみや困難を少しずつ解決し、前を向いて生きられる世の中であるための手段。

日本にはとにかく今後の難題が山積みですが、ひとつひとつを見直すことで住まいが確実に心地よくなるように、まずは意識を変え、政治のあり方、関わり方を見直していくことがスタートなのだと思う。それしかない。

10年経って思うこと。